先日、職場の飲み会で、ある言葉を耳にした。
「高卒にもわかるように言って」
その場にいた大学生に向けられた、上司の一言だった。
私は高卒だ。
その言葉が単なる冗談だったのかはわからない。
けれど、ひどく不愉快だった。
高卒だから理解力が低い。
大学を出ているから頭がいい。
そんな価値観が、何気ない一言から透けて見えた気がした。
しかも、それを口にしたのは教育に携わる人間だ。
学ぶことの価値を誰よりも理解していてほしい立場の人が、学歴を人の能力を測る物差しにしている。
なんとも皮肉な話だと思った。
そして私は、猛烈に腹が立った。
帰り道、私は考えた。
私はいま英語を勉強している。
だから、この際絶対に英語を話せるようになってやる。
誰よりも英語を聴いて、もっと広い世界を知って、こんな人の評価なんて気にならないくらい成長してやる。
ずいぶん突拍子もない話だ。
けれど、不思議なことに、怒りが湧いてくるほど、これからの自分が楽しみになった。
悔しさは、ときに驚くほど強い原動力になる。
今まで漠然と抱いていた目標が、突然、鮮明になることがある。
私にとって、今回はそれが英語だった。
…少し冷静になって考えてみる。
そもそも、なぜ私はこれほど腹が立ったのだろう。
学歴を馬鹿にされたから。
自分の能力を低く見積もられたように感じたから。
もちろん、それもある。
けれど、本当に嫌だったのは、他人が勝手に決めた基準で、自分の価値を測られたことなのかもしれない。
学歴、職業、年収、肩書き。
社会には、人を評価するための物差しがたくさんある。
もちろん、それぞれに意味はある。
学歴は、ある分野を学んできた証明になるだろう。
資格は、一定の知識や技能を身につけた証明になるだろう。
けれど、それらは人間の能力や価値の、ほんの一部分を示しているにすぎない。
その物差しでは測れないものが、世の中には山ほどある。
それなのに、私たちは他人から差し出された物差しで、自分自身を測ってしまうことがある。
そして、その数字が低いと、自分の価値まで低くなったような気がしてしまう。
なんだか、馬鹿馬鹿しい。
今回の出来事で、私は英語をもっと頑張ろうと決めた。
けれど、ここで一つ、気づいたことがある。
もし私が、誰かを見返すためだけに英語を勉強するのだとしたら。
それは結局、他人の評価を気にし続けることになるのではないだろうか。
それでは、少しも自由になれない。
そもそも、私はなぜ英語を勉強し始めたのだろう。
好きな動画を理解したい。
英語の本を読んでみたい。
もっと広い世界を知りたい。
海外の人と話してみたい。
知らない世界に触れて、自分の世界をもっと広げたい。
私には、私自身の目的があった。
怒りは、必ずしも悪い感情ではないと思う。
理不尽なことに腹を立てるのは、自分が大切にしている価値観を守ろうとする反応でもある。
そして、その怒りが行動するきっかけになることもある。
ただし、怒りを燃料にすることと、怒りに人生のハンドルを握らせることは違う。
誰かを見返したいという気持ちで走り出してもいい。
けれど、どこへ向かうかは自分で決めたい。
相手を追い越すことだけを考えていたら、いつまでも相手の背中を見続けることになる。
せっかくなら、もっと遠くへ行こう。
相手が見えなくなるくらい、自分の好きな方向へ。
いつか英語が自由に話せるようになったとき。
私は、誰かに自分の能力を証明したいと思うだろうか。
もしかしたら、その頃には今日の出来事すら忘れているかもしれない。
それくらい、夢中になれることが増えていたらいい。
誰かに認めてもらうためではなく、自分が知りたいから学ぶ。
誰かより優秀になるためではなく、自分の可能性を広げるために努力する。
そして、誰かの評価によって、自分の価値が上がったり下がったりすることのない人生を送りたい。
最後に、今の自分に贈りたい英語がある。
I’ll prove it to myself, not to them.
他人にではなく、自分自身に証明してみせる。
今日、私はずいぶんいい燃料をもらった。
腹立たしい出来事だったけれど、いつか笑って振り返る日が来るだろう。
その頃には、きっと今よりずっと遠くにいる。
他人の物差しなんて、届かない場所に。


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