「将来どんなおばあちゃんになりたい?」
そんな問いをきっかけに、子どもの頃に出会った人たちのことを思い出した。
昔住んでいたアパートの二階に、ひとりの素敵なおばあちゃんがいた。
遊びに行くと、ケーキを焼いてくれたり、お手玉や折り紙を教えてくれたりした。
その家は、物が少ないわけではなかった。
棚には季節の飾りや本、小物が並んでいて、暮らしの温度が感じられる家だった。
そこにいると、不思議と落ち着く。
子どもの私は、その理由なんて考えたこともなかったけれど、あの部屋へ行くと心がほっとしたことだけは覚えている。
友達のお母さんもそうだった。
いつもニコニコしていて、誰にでも気さくに話しかける。
懐が広くて、気が利いて、お家は美術館のように美しい。
でも、私が惹かれていたのは、整えられた部屋だけではなかった。
その人のそばにいると、肩の力が抜ける。
「そのままでいていいよ。」
言葉にされたわけではないのに、そんな空気が流れていた。
思い返してみると、私が憧れていたのは「素敵な暮らし」だけでなく、「安心をくれる人」だったのかもしれない。
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今、私は小学生向けの塾と、不登校の子どもたちが過ごす居場所のお手伝いをしている。
子どもたちと関わる中で、いつも願っていることがある。
ここが、その子にとって「安心できる場所」になったらいいな、ということだ。
学校でもない。
家でもない。
でも、
「ここへ来ると、なんだかほっとする。」
そんな場所が一つでもあれば、人はまた前を向ける日が来るかもしれない。
誰かの人生を変えたいとは思わない。
立派な言葉をかけたいわけでもない。
ただ、ちゃんと話を聞いて、
一緒に笑って、
「おはよう。」
「また来たね。」
そんな何気ない時間の中に、小さな安心の種は蒔かれていくのだと思う。
その子にとってあたたかい場所でありたい。
そう願いながらお手伝いしている。
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先日、ある言葉に出会った。
「安心は、才能ではなく、贈り物として受け継がれていく。」
その言葉を聞いたとき、胸の奥で何かが静かにつながった。
子どもの頃、私は安心をくれる大人たちに出会った。
あのおばあちゃんも。
友達のお母さんも。
きっと「安心を与えよう」と頑張っていたわけではない。
ただ、その人らしく暮らしていた。
その自然な姿が、私の心に小さな種を蒔いてくれた。
だから今、私も子どもたちの前では、無理に立派な大人になろうとしなくていいのかもしれない。
ちゃんと話を聞いて、
一緒に笑って、
「おはよう。」
「また来たね。」
そんな何気ない時間の中にこそ、安心は宿るのだと思う。
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将来は、趣味をたくさん楽しむおばあちゃんになりたい。
庭でハーブやラベンダーを育てて、
季節の花を愛でて、
コーヒーを丁寧に淹れて、
ウクレレを奏でたり、絵を描いたりする。
誰かがふらっと遊びに来たら、
「クッキー焼いたから、食べていく?」
そんなふうに笑って迎えられる人になりたい。
悩みを相談されても、立派な答えは出せないかもしれない。
でも、
「そうなんだね。」
その一言だけで、人の心が少し軽くなることを、私はあの人たちから教えてもらったから。
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私は、「自然であることを、慈しむ暮らし」がしたいと思っている。
無理に理想の自分になろうとしなくていい。
背伸びをしなくてもいい。
自分らしく、心地よく暮らしていく。
そんな毎日から生まれる空気は、自分だけのものではないのだと思う。
部屋に差し込む朝の光や、コーヒーの香りが、そこにいる人の心をゆるめるように。
自然体でいることも、きっと誰かを安心させる。
安心は、大きな言葉や特別な出来事から生まれるものではない。
何気ない毎日の中で、静かに育っていくものなのだと思う。
子どもの頃、私はたくさんの安心の種をもらった。
ケーキの甘い香り。
折り紙を折る時間。
「そのままでいていいよ」と伝わってくる空気。
その一つひとつが、気づかないうちに私の心の中で芽を出していた。
だから今度は、私も誰かの心に、小さな安心の種をそっと置いて帰れる人でありたい。
芽が出るかどうかは、その人の時間に委ねればいい。
いつかその種が育ち、その人がまた誰かへ安心を届けていく。
そんな穏やかな循環が続いていったら。
それだけで、この世界が少しやさしくなるような気がしている。






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